フリーゲームに人生観を変えられた話
どーも、フェルマです。('ω')
今回は投資以外の話もちょっとしたいなと思い、学生時代にハマり、色々と考えさせられたフリーゲーム、「Seraphic Blue」(セラフィックブルー)を通じて私が何を感じたのかについて語ってみたいと思います
Seraphic Blueとは
Seraphic Blueは2004年に天ぷらさんという方が作成されたプレイ時間50時間を超える長編RPGです。難解で重厚なストーリーに加えて、戦闘難易度もかなり高いRPGの上級者向けの作品でありますが、伏線に伏線を張り巡らせて、最後にすべてを回収するそのストーリー展開はまさに圧巻。何十年も前にプレイしたのにその衝撃はいまだに脳裏に焼き付いて離れません。個人的にはF〇やド〇ク〇といった一般のコンシューマー向けのゲームとは一線を画すフリーゲームだと思っております。(これをタダで遊んでいいのかといい意味で疑問に思っておりました)
フリーゲームであるが故、グロテスクな表現やショッキングな描写等過激な表現もありますが興味のある方は是非一度遊んでほしいゲームです。
Seraphic Blueを通じて考えされられた事
このゲームを最後までプレイして私が感じたのは生まれてくる事、生きていく事は絶対的に最善だとは言い難いと言う紛れもない事実がある事です。ネタバレになるので詳細は省きますが、とある敵キャラのセリフに以下があります。
子供は生まれて来た時に泣いているでしょう?あれはそういう事。
能くも私を産んで呉れたな。
ハイリスクを背負わされてまでの
不確かな幸せなんて、欲しくなかった。
確かに赤ちゃん側に立てば親が選べない状態で強制的にこの世に生を受けさせられて、その後、幸せになれる保証がどこにもない状態で様々なリスクと戦いながら生きていかねばならないのですから。そりゃ、よくも生んでくれたなと思いたくなるのもわかりますよね(;^ω^)
不確かな幸せよりも確実に不幸でないことの方が重要。その状態を生み出すのは「無」のみであるというのが敵さんの主張なんですけど、この主張はおかしいと感情論的に否定するのは簡単だと思います。しかし、私達はこの主張を理性的に事実に基づいて看破する事が出来るでしょうか?
世界には明日食べるものに困っている人々がいる一方で全世界の資産の大半を所有する人々がいます。資本主義というシステムに私たちが根付いている以上、格差という不幸は無くなりませんし、これからも無くならないのでしょう。絶望を絶望として包み隠さず提示したこのゲームはある意味宗教的とさえ思えます。
しかしながら、私たちはこの世に存在してしまった以上何かしらに希望を見出して生きて行かねばなりません。このゲームを通じて私は自分にとっての幸せとは何かを真剣に考える癖がついたと思います。その幸せというのは他人から定義付けられたものではなく紛れもなく自分で考えて見出した物。あとはその幸せな状態にいかに自分をもっていくかそれが人生のテーマであると私は確信しております。
以上です。最後までお読み頂きありがとうございました!